2009.07.02

さいたまゴールド・シアター『アンドゥ家の一夜』

3年前に発足した「ゴールド・シアター」の今回の公演を昨日見てきました。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、平均年齢70歳、ゴールドエイジのメンバーによる劇団です。しかも素人集団、多少演劇に興味があった人もいるでしょうが精々演劇部員どまり。そのメンバーを蜷川幸雄さんは鍛え上げて3年目です。

今回の内容は今までに較べ分かりやすかったです。・・・・かつて、高校の教師をしていたことのある「安藤先生」は若き演劇部の顧問でもあった。その教え子たちが卒業後50年を経て、先生が危篤ということで集まる。先生のお宅はなぜかポルトガルで、しかも沢山の人を宿泊させることのできる豪邸、コックやメイドや執事までいる。かつて高校教師だった私にはこの設定はどうも納得できなかったのですが・・・・・

60代後半になった「元若者」達には、それぞれに人生の苦楽があり、今抱えている悩みや苦しみがある。危篤の「先生」にも後悔や未練がある。・・・・ひとつひとつのセリフに実感があり、今の「成熟社会」の哀感を漂わせている。但し、観客には笑いとペーソスを与えてくれる。

結構長いセリフの人もいて、すっかり役者になってしまった感じ。私が見たのは3回目、すっかり顔を覚えてしまった人もいる。なんと84歳の女性は初々しさを感じさせるメイドさんの役(あの可愛らしいエプロン姿なのですよ)。皆さん体力も十分で、階段を駆け上がるシーンなど若者のよう。

蜷川さんは、開演間際まで指導、そして開演後も脇でプロンプターをやっていらした。それがこの演劇者集団の生の姿ということをみせたのかもしれない。まさかの冒険に答えてくれたゴールデン・エイジのメンバーと一体化してしまったのだろう。

必死にセリフを憶えたのだろう、声の大きさは訓練のたまもの、ダンスのステップなど浮き立つようだ・・・・・・・と、ひたすら感心・感嘆の思いでした。Kさんは素敵な役を「元女学生」のにおいを漂わせて演じていました。

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2009.06.27

花菖蒲と菖蒲は違うもの

Photo 「いずれがあやめかきつばた」との言葉どおりいつになってもアヤメと菖蒲とカキツバタの区別がつかないのですが、今満開の各地の「菖蒲園」といわれるところで咲いている花は正式には「花菖蒲」というのだそうです。端午の節句にお風呂に入れるのが「菖蒲」で花菖蒲とは別の植物ということです。1年前まで席を並べていた数学の先生が「日本の野生のあやめ」の研究者で、日本各地の山の中に残っているあやめの原種を見つけて海外にも発表されているという方で(隠していらっしゃいましたが)教えてくれました。菖蒲湯用に葉っぱの部分だけを早めに採って5月に使っているものと思っていたのを修正してくれました。菖蒲はサトイモ科に属すると。花菖蒲はあやめ科です。

都内にも各地に「菖蒲園」がありますが、「明治神宮」の菖蒲苑の写真を載せました。先に「日本の森林」のことに触れましたが、身近に森林のお手本がありそれが「明治神宮の森」であることを講演会の時に教えてもらいました。もし、菖蒲苑に行かれることがありましたらこの季節の「森」のほうにも注目です。

神宮の森の樹木は日本全国から集められたといわれますが、大正4年に造営が始まり北はサハリンから南は台湾まで、中国東北部や朝鮮半島からも献納され10万本が植樹されたそうです。当時の種類は365種、現在は246種類、約17万本があの大きな杜となっているとのことです。落ち葉掃きが大変そうです。

どのような木を植えるかで、当時の学者達が「100年後を見すえて」考えた結果「照葉樹でなければ育たない」と決定したそうです。しかし、当時の内閣総理大臣大隈重信は、「杉にするべきだ」と主張したので関係者は断固として反対し、当時すでに東京は公害によって大きな木が枯れており、また関東ローム層の大地には杉は適さないとして総理大臣を説得したとのことです。このような優れた決定をまさに「先見の明」というのですね。よかったです。現在の杜は自然林になっているとして世界的にも評価が高いのだそうです。

毎年、初詣では「日本一」を誇る明治神宮ですが、あのお賽銭が杜の維持に使われているのでしょうか。

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2009.06.20

日本の森林被覆率は67%  先進国ではずば抜けて高い

Photo Photo_2 先週の土曜日にちょっと変わった講演があり、興味深く聴いてきました。比較経済史の専門という先生が歴史の研究会で、最初は幾つかの統計データを出されながらの説明でした。森林が国土を覆っている割合ですが、幕末の頃で69%、現在は67%だそうで、森林の破壊云々が言われている割には森林を維持・保護する努力もされているとのことでした。

驚いたことに、フランスでは27%、イギリスではたったの7%しか森林がないのだそうです。フランスは1000年前には47%でしたので、1000年間の森林減少率が日本より高いということになります。イギリスはもともと森林が少なく1000年間で8%の減です。確かにドイツの森とかボヘミアの森とかは映像にも出てきますがフランスやイギリスでは「森」と名がついても実は樹木の多い公園だったりします。

日本がなぜ森林が多く残されたかについて外国の人の研究があって、徳川時代の幕藩体制の下で『育成林業』がおこなわれてきたことに注目したそうです。熊沢蕃山の著書に「近年山荒れ川浅くなれり。是国の大荒なり。昔よりかくのごとくなれば、乱世となり・・・・人多く死し、扶持米にも困るようになる。材木・薪をとること少なく、堂寺を造ることもしないでいれば山々もとのごとく茂り、川々深くなれり」とあって、伐採が多かったことについて触れているそうです。

その後、いくつかの藩では藩財政の建て直しの必要から植林をしたり、藩の方針で森林伐採を留めたり(留山という)して保護育成を図るようになり(秋田杉・木曽の檜など)その効果から他の藩もそれにならった結果、森林がまた回復したということがわかってきたそうで、日本が江戸時代から『育成林業』をおこなっていたことは世界のなかでも特筆されるということでした。特に幕藩体制のよさが出て、中央の命令ではなく各藩が競争しあって特産の木を生産し、市場にだしていたそうです。社会の混乱期の幕末にはまた山が荒れ、明治政府は林業政策の範をドイツに求めて植林に力をいれたそうです。しかし、あまり中央政府主導型では均一化されてしまい、各地で競った江戸時代スタイルに戻したりもしたそうです。

経済学の先生ですから、グラフを用いたり統計をつくったりして歴史家のとらえ方とは異なる手法での歴史の講演でした。昭和時代も戦争や開墾で森林が少なくなったり荒れたりしました。戦後国土復興のために農林省が率先して林業振興政策をとったことは有効だったでしょうが、あまりに一律化されて弊害も多くでてきていることは早急に森林政策の見直しが必要ということです。杉ばかり植えたから「スギ花花粉症」が蔓延しているということとつながるでしょう。

こんな話を聞いたら、なんでもない道端の山や住宅地のなかの山も貴重にみえました。最初の写真はそんななんでもない木のかたまりです。

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2009.05.31

白河・南湖名物「そばだんご」

Photo Photo_2 5月24日、福島県白河市に行ってきました。「アウシュヴィッツ平和博物館」がメインの訪問先でしたが少し別のお話を・・・・。

白河といえば「松平定信」、寛政の改革を実施した老中で有名です。では、定信はこの地で生まれたのでしょうか。そうではなくて、実は定信は江戸城中の生まれです。8代将軍吉宗の孫で、吉宗が創設した田安家(一橋家、清水家とともに御三卿として将軍後継を出す家)で生まれ、一時は将軍を継ぐとの声もあったそうです。しかし、田沼意次らの反対で、東北の白河藩松平家の養子に決められ白河藩主となりました。ときに「天明の大飢饉」で、全国的に多くの餓死者が出るような大変な時代でした。東北は特に被害が大きかったのですが、白河藩は定信の政策により領民達は被害を受けることが少なかったそうです。米だけでなく麦や蕎麦をつくることを奨励したからでしょうか、白河の名物は「南湖だんご」でした。

同行のメンバーは主婦ばかり、昼食に「ラーメン」や「だんご汁」などをとりましたが、『蕎麦だんご』に目がいきました。蕎麦粉のだんごは珍しく一皿を何人かで分け合って(!)味見をしたところ、美味しいのです。やわらかくて・・・・。早速作り方など尋ねましたが、あまりはっきりとは教えてくれませんでした。「企業秘密ですから」と。

その後、松平定信が造った「日本最初の公園」である「南湖」を少し歩きましたら、5軒ぐらい「お団子屋さん」が並んでいました。『名物南湖団子」と書いてありました。覗いてみましたが、先刻食べた『そば団子』とは違うのです。小粒のお団子です。昼食を食べたのは『湖畔亭』でした。もしかしたら、あのお店だけのオリジナルだったのかもしれません。お土産用には写真のように「竹皮」で包んでありました。5軒のお団子屋さんにはない工夫が見られて嬉しくなりました。たかがお団子・・・ですが、心意気が違う感じがします。

全国各地、町おこし・村おこしに取り組んでいるところは多いのですが、やはり独創性が大事です。東京でも買える様なものでは売り上げはのびませんよ。『湖月亭のそばだんご』ならおすすめです。

さて、福島県の北が「宮城県」です。NHKの昼の12時台の番組「ふるさと一番」では今週宮城県の珍しい所を訪ねたり特産品を紹介することになっているそうです。お時間があったら見てください。白河に一緒に行ったメンバーに関係ある人heartが制作に携わっているそうです。若い人の「がんばり」を見てください。

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2009.05.10

いいこと いっぱい 生まれますように

今日は母の日です。先日ラジオで「○○の農園では今小さな鶏頭の花の出荷がピークです」と放送していました。理由は「母の日が近いからです」と。??????でした。母の日にどうして鶏頭の花を使うのかしら?間違っていることを放送しているのでは。

ところが、花やさんの前に行ってみてなるほど分かりました。まあるいデコレーションケーキのように鶏頭の花を彩りよく飾って母の日のプレゼント用の花にして売っているのです。カーネーションも今や赤とはかぎりません。様々な色があり、「これがカーネーション?」という様な花の形もあります。なんでもカラフルなのは楽しく元気がでるものです。

先日、「少しはやいプレゼントですが、僕が選びました」と娘夫婦からまさにカラフルな湯飲みをもらいました。Yunomi_2 Photo_2 Photo 書いてある言葉がまた楽しいのです。不景気だ、購買力が落ちたなんて言っていないでアイデアで勝負!ですね。

「生まれますように」というのがミソでしょうか。「ありますように」と神頼みをしたり、誰かがしてくれるのを待っていてはいけないようです。

しばらく、この湯飲みとにらめっこしながら「いいこと いっぱい考えたり、作り出したりしましょう。」

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2009.05.03

夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉がしげる・・・・・

Photo Photo_2 五月になりました。毎日よい天気が続いています。2日は八十八夜だそうです。「八十八夜の別れ霜」という言葉があると教えてくれたのは地理の先生でした。気候についての話からだったでしょう。「茶摘み」という歌の最初の歌詞「夏も近づく八十八夜・・・・・」を聞くと「別れ霜」が連想されます。写真の若葉は5月2日に自宅近所で撮ったものです。このように出たばかりの新芽が霜にやられてしまうことになると大変です。「五月の上旬でもまだ安心はできないよ」と教えてくれる大事な言葉です。今年も1週間前まで朝夕が寒い日がありました。天気予報では「霜注意報」が出されていました。以前は茶畑の中に竹を立てたり古タイヤを燃したりして農家の人は寝ずの番をして降霜を防いでいましたが、今は殆どの茶畑に「かざぐるま」が設置されています。今晩は寒そうだなーと思うと、この「かざぐるま」に電気が入り、音をたてて回転し始めます。ブーンブーンという音が聞こえてきます。新芽の出る僅かの時期にしか利用することのない設備ですが、効果は抜群で、先週の寒さにも負けずやわらかな新芽が伸びていることがよくわかります。

「茶摘み」の歌には「あれに見えるは茶摘みじゃないか?茜だすきに菅の傘」とありますが、今朝はある畑の近くを通りましたら数人の女性達が茶摘みをやっている風景にであいました。もちろん歌の文句のとおりではなく長袖のシャツに帽子を被って地味な服装でした。赤いネッカチーフでもすると緑の畑のなかで色鮮やかな風景を提供してくれるのですが・・・・・・。それにしても「手摘み」は珍しいです。今は殆ど機会で摘んでいます。茶畑を所有している農家は殆どの家で自前の「製茶工場」をもっています。この時期はフル稼働です。夜遅くまで工場には灯りがついています。新茶の季節、どうぞ当地特産の『狭山茶』はいかがですか?

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2009.04.27

もう一人、導きの女性だった人 俵萌子さん

昨年11月に、俵萌子さんが亡くなられた。この女性には生き方の指南をしていただいた。78歳で亡くなるなんて・・・・・・私は生き方の先輩を失って途方に暮れてしまう。

確か高校生の頃だった。社会科のB先生が「今度このような週刊誌が発刊された。ここに出ているのは君たちの先輩だ」と言って見せてくれたのが『女性自身』だった。女性週刊誌として『週間女性』と相前後して創刊され、今なお続いている女性週刊誌である。皇太子のご成婚が決まり、皇室記事を毎回載せて読者を増やしていった。その読者は独身女性が多かったのであろう。身の上相談なども人気のコーナーだった。

その姉版とでもいうのだろうか、「二人自身」という女性対象の月刊誌が丁度大学を出た頃発刊された。大学の友人のK君が出版社に入社してまもなく配属されたのが「二人自身」の編集部でその雑誌を送ってくれた。そこに登場したのが「俵萌子さん」だった。新聞社に勤務し、同僚の男性と結婚し、二人の子どもを産んで共働きを続け、公団住宅に住んでいる家族の姿が誌面を占めていた。

周囲に「共働き」の女性の姿を見ることがなく、保育園などについても何も知らなかった者には「輝かしいモデル」だった。ついに私も公団住宅に住み、保育園建設運動に加わり、晴れて「共働き女性」になれたのは雑誌などで知った「俵萌子」」さんなどの先駆者モデルがあったからだ。写真の俵さんは目が輝き、働いている姿は美しかった。

新聞記者を辞めた後の俵さんは評論家としてご自身の歩みを語りつつ「生き方」や「教育」や「子育て」そして「一人暮らし」や「老い」について色々なことを教えてくれた。乳ガンを克服して同じ病を体験した女性達に生きる希望を色々な形で教えてくれていた。

南田洋子さんの本とともに『人生、捨てたもんやない』(海竜社)という俵萌子さんの最後の本も早速読んでみた。子育てが終わった時、群馬県の赤城山の500mの森のなかに家を建て、花や樹木を植え、陶芸を極める暮らしを作り出して、そこからまた新たなメッセージを出していたが、昨年2月「人間ドッグ」で肺にあやしい白い影がみつかり、スペインへの旅行も済ませた後に手術をし、ベッドで原稿を書き続け、11月に亡くなったという。

晩年、俵さんの憧れた女性はターシャ・チューダーだったそうだ。15歳年上、同じように40代で離婚をし、森の中で花に囲まれて暮らす道を選び、絵や陶芸に創作意欲を満足させる生き方を知り同感したそうだ。ターシャは92歳まで生きたのだから萌子さんも90になる自分を夢見ていただろう。憧れを抱き続けていただろう。しかし、萌子さんは、ターシャ・チューダーが亡くなった年にその後を追うように逝ってしまった。

78歳の誕生日を前に亡くなるなんて若すぎる。残念至極だが、晩年の生き方はまた私に何かを教えてくれた。長い間ありがとうと言って悼ろう。

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昔輝いていた女性 南田洋子さんの今の姿から

新宿の本屋さんに立ち寄って、店頭にあった本「待ってくれ、洋子」に目が釘付けになりました。表紙にある写真は長門裕之さんと南田洋子さん、洋子さんの年老いた姿にショックを受けました。週刊誌などで洋子さんの病気がとても重いと書かれていましたし、以前にドラマに出ていらした時に大変老けた役をやっていましたので、想像はしていましたが、そのあまりの変わり様に愕然としてしまったのです。

私たちの年代の者には「太陽の季節」という小説、そして映画は極めて強烈な印象を与えてくれたものでした。中学生でしたから映画そのものは見ることは出来なかったのですが、ポスターなどに描かれたシーンは今でも頭の隅に残っているほどです。すぐに「長門裕之」のファンになり、裕次郎だ、津川雅彦だと中学生同士で情報交換をしたものです。二人が結婚し、「ミュージック・フェア」などで新しい夫婦の姿を見せてくれて、なにか自分たちを引っ張ってくれる存在でした。南田洋子さんのキリリとした姿に憧れたものです。

女優さんといえども歳をとりますし、それなりの役柄で女優業を続けていらっしゃる方は沢山いますが、洋子さんの変わりようはあまりにも激しく、どうしたの?との思いでこの本を読みました。夫である長門さんは今、認知症になった洋子さんの介護をなさっているということです。隠さず、実際の様子を書かれている。毎日の生活の様子を読んでいると、これは何も俳優さん、女優さんの話ではなく今の普通の日本の家庭の年寄りの置かれている実情なのだとわかってきました。いくらかつて輝いていた人でも予想外の世界に入ってしまうこともあるのです。

優しく、思いやりの深かった母上が「今は私のことも判らなくなってしまったの」と話す友人の介護の日々を聞いたこともある。そこでは、少なくとも自分たちの親の世代の話だったのだが、今回の南田さんの姿は自分たちにもまもなく訪れることという現実をも知らされることとなった。物忘れが激しくなって冗談に「認知症だよ」と言っているが、冗談ではなく本当に「その日」がやって来ることなのだ。

悲しいよね、洋子さん! そして長門さん!でも二人で頬寄せ合って撮った写真は素晴らしい。「老老介護」という問題をあからさまに提起してくれた長門裕之氏にお礼を言いたい。

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2009.04.19

昨年の今日(4月19日)は中学卒業50周年の集いがありました

Photo この桜は「普賢象」という名前の桜です、と添付ファイルに自宅の桜の写真を添えてメールをくださったのは、昨年の集いの幹事長を務めたH君です。「中学時代はガリ勉で友人づきあいが少なかったので、同期会をやろうに誰に声をかけてよいかわからない」と中学・高校が一緒だった2人に相談したのがきっかけで何とか幹事が8名集まりました。私もその一人でした。中学卒業後一回も同期会などやったことは無く、その中学は職員室を中心に火事が発生し関係書類も全部焼けてしまったので、全く「雲を掴むような中で」の住所調べ、新聞への投稿、高校の卒業生名簿調べ・・・・とすすめ、ついに実現させ、同期生400人中80名の参加で盛会でした。

H君は呼びかけ人ではありますが、なんとなくおっとりしていて、気が気でない周りの者がせっせと仕事をすすめることになりました。才気煥発なKさんなど「自分ではやらないのだから・・・・私がやるわ」と面と向かって怒ったりするのですが、特に反対意見を述べるでもなく苦笑しておわり・・・。「呼びかけの葉書には幹事の顔があった方がよい」と幹事の顔を撮り、葉書に載せました。「アレを見て昔の友だちに会いたくてきたよ」と言った人もいましたから要所要所を押さえる術は心得ているのです。

彼の提案した幹事の集まるところは「ラ・ベントゥーナ」というイタリアンレストランのランチで。それも住宅地の中にある園芸店や喫茶店とセットのおしゃれな空間でした。ワインなど飲んで。どうも飲み屋で一杯やってというのは嫌いなようでした。実は先週の土曜日にまた幹事会がありました。「来年、またやりましょう。5年後と言ったのですが、それまで生きているかどうかわからないので」ということで、その打ち合わせでした。翌日、メールが届きこの桜の花の写真と川柳がひとつ、ついてきました。不思議な人です。でも彼が言い出さなかったら実現しなかったのですから、私は感謝しています。何十年ぶりかで旧友に会えたのですから。同時代の人間としては発想がユニークで面白い人です。

今年の桜は長く咲き続けてくれました。今八重桜が満開です。H君が送ってくれた「普賢象」という名の桜の実物を見てみたいと思っています。とても自慢の桜なのではないでしょうか。

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2009.04.04

水仙、菜の花、ムラサキハナナーまとめて1束100円也

Photo 日本の春の到来はお菓子で言えば「さくらもち」?桜が咲いたの咲かないのと大騒ぎをするのが日本の春の到来。今年の春は早く来るといっていたが、このところ毎日寒い日が続いた。我が家の周りにある茶畑では霜が降りるのを防ぐため毎晩のように「風車」が回っていた。空気を攪拌して空気が凍り付かないようにするのだ。まもなく新芽が出てくるお茶の葉は大事に守られただろうか?そのようなわけで、桜の開花も遅れがち、暖かくなった今日やっと満開になった。

そんな春の日が訪れたので、自転車で一回り。農家の「野菜売り場」が目的で出掛けてみたら里芋やほうれん草の隣に花束もある。なんとも素朴な花々。温室などではなく畑の隅にある花々。それこそ春の到来を思いっきり告げてくれる花々。家族にケガ人が出て慌ただしかった1週間、やっと一息ついた日に玄関にやってきた我が家の「春」でした。外に出たら夜桜もきれいだった。Photo_5

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2009.04.03

春がきた  パスクワのお菓子

Photo_2 イタリアの春は「復活祭」と共にやってくる。イタリア語ではパスクワ(Pasqua)という。キPhoto_3 リストの復活を祝う日だが、日にちの決め方が複雑、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日となっているので3月22日~4月22日の間に訪れることになるそうだ。クリスマスと同じに重要な宗教的な行事だそうで学校も1週間休みになるということである。

あちこちのショーウィンドウにはパスクワのお菓子がならぶ。大小様々な卵の形をしたチョコレート「ウオーヴァ・チョコラータ」、中は空になっていてオモチャが入っていたりするという。生命の誕生を表す卵がキリストの「復活」の象徴なので、復活祭はこれが無くては意味がないという大事なもの。左の赤い箱の中にリボンで結ばれた赤い卵が入っている。装飾も凝っている。イタリア的だ。

もう一つ「復活」の象徴が鳩で、鳩の形をしたロンバルディア生まれのお菓子を「コロンバ」という。「コロンバ・パスクワーレ」右の写真は、何となく鳩にみえませんか?アーモンドが上に載っている。アーモンドには「繁栄」の意味が込められているという。クリスマスには「パネトーネ」 「パスクワにはコロンバ」と、はっきり分けて伝統的なお菓子を祝いの席に載せるという頑固さは今も続いている。お土産として交換しあうことも活発なようだ。ありがたいことにキリスト教とは縁のない東方の小国にも遙々送られてきた。パスクワおめでとう!

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2009.03.28

体操の遠藤幸雄氏逝く

体操の遠藤幸雄さんの訃報が新聞に載っていました。1937年の生まれで、まだ72歳での他界でした。残念です。私たちの年代ではオリンピックでの体操選手の活躍はとても印象に残っている競技の一つです。今のような「クラブ制度」ではなく大学の部活動の一つとして活動していたメンバーが選ばれてオリンピックに出ていました。遠藤氏は秋田の出身ですが中学時代に親を亡くされて保育院といわれた施設で育ったということです。高校卒業後、入学も大変難しい国立大学に進学し(スポーツ推薦などという制度はありませんでした)そこで猛練習をして更に力をつけたということです。東京オリンピックでは個人総合と平行棒、それに団体総合とで3つの金メダルをとったのですから本物の実力を持っていた方でした。

その遠藤氏が調布北高校にいらっしゃったのです。北高の卒業生が体育の教育実習のため母校に来ていたときにその指導教官として。「大学の先生がみえました。」というのでお会いしたところ、いただいた名刺が「○○大学 遠藤幸雄」聞き覚えのあるお名前、そっとお顔を拝見すると・・・・。   「体操の遠藤さんですね。」とお聞きしましたら、「昔は・・・・」というお返事でした。体操選手の頃は大きくみえたのですが、実際にお会いしてみると小柄な方でした。一緒に実習生の剣道の授業を見学しました。「大学にいるより外に出て高校など回っている方が好きで・・・・・・」などと楽しそうに見ていらっしゃいました。

多少雑談などしまして「小野清子さん」のことも話題になりました。「彼女は中学の後輩で」と言っていたように憶えています。小野さんも体操選手として東京オリンピックで入賞された方です。明るく積極的な方で子育てが終わってからしばらくして国会議員になられ色々に活躍されました。遠藤さんとは大学も同じでした。一緒に練習していた情景が想像されました。

その小野清子さんにも調布北高校絡みでお会いする機会がありました。生徒の一人がある出版社から奨学金を受けていて、無事卒業したということでお祝いの会がありました。そこにいらっしゃったのが小野さんで、基金の理事か何かをなさっていたのでした。隣に座って一緒に写真を撮るという恩恵に浴しました。お元気な小野さんですから、「遠藤先輩、どうしてそんなに早く逝ってしまったの!」と叱りつけているかもしれません。

かつてその演技を固唾を飲んで見入った方々と面と向かってお話できたり、一緒に写真を撮ったり、役得だったなーと実感しています。遠藤さんとお話したのが最近のような気がしますがもう10年くらい経ってしまったのでした。ご冥福をお祈り申し上げます。

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2009.03.16

生徒たちとつくった甘夏ミカンのマーマレード

Photo 旧友達とオシャベリしていて「ジャムづくり」が話題になりました。それぞれの流儀あがあっておもしろかったのですが、私にとって思い出に残るのは「水俣の甘夏ミカンをつかって作ったママーレード」です。もう20年も前のことになります。家庭科の先生と相談して「水俣病の学習」と結びつけたジャム作りをしました。

水俣病の被害を受けた人たちが、生活の手段としての漁業が出来なくなって特産品の甘夏ミカンの生産に取り組み始めていました。「チッソ」の工場排水の垂れ流しによって海が汚染されその海で穫れた魚を食べて多くの人が「水俣病」にかかるという悲惨な公害事件でした。化学薬品や農薬の恐ろしさを体験した人々が無農薬の甘夏つくりに懸命に取り組んでいるのを助けようと生協などで「甘夏ミカン」の共同購入をやっていました。公害の学習と調理実習を結びつけて・・・・と計画したのですが、甘夏の届くのが2月末か3月初め、高校の授業は3月の第1週で終わってしまいます。ギリギリ間に合うといった状況で共同購入した甘夏を学校に運び、マーマレード作りをしました。授業の最後の方ですから、他にも自由になんでも作っていいというと殆どが生クリームでコッテリ飾ったケーキだったりして妙な組み合わせのものになっていました。

以来個人的にはこの季節になると「甘夏ミカン」を購入する習慣のようになりました。買ったもののそのままになってみずみずしさがなくなってしまうこともよくありました。この春はなんとか萎びてしまわないうちにマーマレードになりました。苦みと香りが好きです。

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2009.03.09

懺悔・転向を表明した中谷巌氏「日本の美質は自然に対する尊敬の念」と

「資本主義はなぜ自壊したのか」(集英社インターナシオナル)という話題の本があります。著者は中谷巌氏、アメリカで最新の経済学を学んで帰国し、政府の経済政策にも大きな影響を与え、教育関係では「多摩大学」教授として、社会にすぐに役立つ学問の有り様を実践して見せてくれた人でした。その人が「新自由主義経済を信奉したのは間違いだった」と自ら懺悔し転向したというのですから、アメリカ発の経済学を正しいものと信じこまされていた我々にはショッキングな宣言でした。

昨年来アメリカ経済がいかにひどい状況に陥っているかを知るにつれ、アメリカの経済政策がおかしかったこと、それを取り入れ(またはアメリカからグローバル資本主義のなかに取り込まれ)た小泉改革も、現在の日本の惨状を生み出したものと気づきだしてはいましたが、今まで旗を振っていた人が「皆さんを引っ張ってきましたが実は大変な間違いをしていました。」というのですから大いに関心が湧いて手にした本でした。

新資本主義の思想、市場原理主義は社会を個人単位に細分化し、「アトム化」された一人一人の自由を最大限尊重する思想であり、共同体的価値には重きをおかない。人間同士の社会的繋がりなど利益追求という大義の前には解体されてもしょうがないと考える思想であり、安心、安全、信頼、平等などには全く価値を置かないのだと氏は言っています。・・・・・・・・・どうしてくれるの!と言いたいです。「自己責任」という言葉がずいぶん広がっていました。自己申告とか自己評価とか、効率優先とか教育の世界にもそのような思想が大手を振って入ってきていました。・・・・・・・

アメリカ型の思想に追随してはいけないと氏は訴えています。日本の再生は日本人のものの考え方、伝統から考えていくことだと幾つかの示唆をしています。日本が世界に誇れる美質は、自然に対する尊敬の念、自然との共生の思想だといいます。森、大木、泉・・・これらのものを聖なるものとして崇め大切にしてきた(神社がつくられ山や森をご神体として信仰してきた)ことであると。自然との共生の思想が日本的な文化をつくってきたのだと。その日本文化の特質をもって環境分野で貢献できるのだというのです。

キリスト教は布教にあたってゲルマン民族などが古来持っていた自然崇拝などの宗教を徹底的に破壊して一神教の原則を貫いてきたといわれます。ゲルマン人が信じていた樹木を切り倒してその上に教会を建てたのだと。なるほど諏訪大社の樅の木を立てて祀る宗教とは相容れない思想です。どこかで異なるものの考え方をしているはずです。

果たしてヨーロッパやアメリカの思想に依存せず自国の思想を持つことができるのでしょうか。もう実在しない「ふるさと」を懐かしんで歌う日本人の感性をじっくり見直してみる必要があるのでしょうか。国粋主義が顔をもたげてきているのかとの疑念もあります。中谷さんの今後の発言や活動に注目したいと思います。もう一人の旗振り人、竹中さんにも。

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2009.03.08

諏訪大社はどのような神社なのでしょう?

Photo 諏訪大社というと、勇壮な「御柱祭り」で有名です。どのような神様を祀っているのか、柱はなにを意味するのか全く知識がありませんでした。昨年越後を訪ねたグループの今年の行き先は「諏訪地方」でした。例によって事前学習なしで後から付いて回ったのですが、諏訪大社は4カ所にあるのでした。1日目は上諏訪駅から行った「上社」の前宮・本宮の2カ所、2日目は下諏訪にある「下社」春宮・秋宮でした。

祭神はタケミナカタノカミとかヤサカトメノカミとかありますが、これは大和朝廷によって統一されたときに系統づけられた神様のようでして、実は「樹木」がご神体という神社です。秋宮のご神体は『櫟(イチイ)の古木』、春宮は『杉の古木』とあります。そのあたりから「御柱」との関連が見えてきました。この写真にあるのは上社前宮の四隅に建てられた柱の一本です。上社の柱は八ヶ岳中腹から25キロの道のりを運んでくる樅の木です。7年に一回で「山だし」の行事といいます。大体4月初め。下社は霧ヶ峰から10キロです。この時に有名な『木落とし』があるそうです。『川越え』といって雪解けの冷たい水の川を渡り柱屋敷に着くと1ヶ月そこに置きます。5月に入ると「里曳き」といって「御柱」を曳行するのですが、これがまた派手な行列でPhoto_2 左のような写真が恵治してありました。大きな柱を氏子が中心になって曳いてくるのですが、柱の最後尾が道路に面した家にぶつかって壊してしまうこともあり、その弁済費用は氏子さんたちで出すことになっているそうです。柱は各社に4本ずつ、総計16本も曳いてきて「曳き建て」るわけです。クレーン車などつかうはずがなく人力で建てるというのですから、その背後に代々の氏子さん達に伝承された技があるということになります。

案内してくれた方によると、諏訪大社では「守屋山」という山もご神体の宿るところとして大事に保存されているとのこと、7年に1度建て替えられる「御柱」はどれも大きく形が良いものですから、何百年にもわたり霧ヶ峰や八ヶ岳の森林を大事に護り、樹木を育ててきたわけで、日本人の古来の信仰の姿が今にまで連綿と引き継がれて来ていることがよくわかります。諏訪大社は全国25000の諏訪神社の本社ですから、日本の各地にこのような山の信仰、木の信仰の片鱗が残っていることになります。

このような古代の土着の神様を祀る神社と、英雄を祭神とする神社とがあって「神道」は複雑です。八幡様は源頼朝を祭り、明治以後は東郷神社、乃木神社など英雄を祀る神社が出来、さらには靖国神社のように国家で管理するような神社も現れ軍国主義とも結びついていきましたから、日本を「神道の国」とされると大いに抵抗があるのです。

諏訪大社は不思議な神社です。4本の樹木を立ててそれを大事にするなんて一神教の世界の人からは信じがたい行為です。日本人の宗教観、思想の根元にかかわることを暗示している社(ヤシロ)です。他にもこのような神社とか自然崇拝の様なものがあるのでしょうね。Dscf0325 次の大祭は平成22年だそうです。来年です。気になりますね。

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2009.02.27

ヒラリー国務長官、なぜ「明治神宮」訪問?

アメリカの政権交代に伴い新国務長官ヒラリー・クリントンがアジア各地を訪問して帰途についた。日本に来たのは16日の夜、18日の朝にはインドネシアに向けて発っていったからもう10日近く前のことである。さわやかに現れ、忙しく校務をこなし、瞬く間に去っていった。やはり存在感のある女性だった。私は以前から「ヒラリー」には興味を持って資料など集めていた。大統領になって欲しかったとも思う。そのヒラリーが日本で学生との対話集会をしたり皇后を訪問したりしたことは新聞にも載ったが「明治神宮を訪問」したことはあまり記事にはなっていなかったと思う。

テレビニュースで、神主や巫女さんと写真を撮っているヒラリーを見たときは驚いた。なんで明治神宮?・・・・・・

彼女の参拝理由は「日本の歴史と文化に尊敬を示すため」とのこと。言われた方がビックリ、明治神宮はそのような位置づけになっているのだと知った。・・・・・・・・・だが、しばらくして思い出した。太平洋戦争が始まった頃、アメリカ軍が兵士を鼓舞激励するためにつくった映画があってその内容は、天皇を神と崇めている宗教をもった「神国日本」を紹介しているものであったことを。

初詣、七五三、結婚式、祭など様々な機会に日本人の訪れるのは「神社」であること。その宗教の神様は「天皇」であること。その神社を東南アジアの日本占領地にも設置していることなど敵国日本を神道で凝り固まった国であることを強調していた。これらの見方がアメリカには流れていたのである。多くのアメリカ人の意識の底に「神国ニッポン」が刷り込まれていたのだろう。

戦争にまけたからといって自国の宗教をそんなに簡単に捨てたりするはずがない、現にお正月には沢山の信徒(?)で賑わっているのが神社である、と理解する外国人が多いのは当然なのだろう。ヒラリーでさえも。

それを受けた日本人の方が戸惑っているのではないか。「歴史と文化」と神社とはどのように関係するのか・・・・・・妙な課題を突きつけられたように思う。私も外国人を連れて「明治神宮」に行ったことがある。明治神宮は日本古来の神社ではなく、その名の通り「明治天皇」を記念して建てられた神社である。しかし、雰囲気は「日本文化」である。森や鳥居は各地の神社の風景である。そういえば、「神はなにか」と訊かれて返答に窮したこともあった。

2週間ほど前に「諏訪大社」に行き、神道とか日本古来の宗教とかを考えさせられた時でもあって・・・・・・非常に印象に残る出来事でした。

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2009.02.16

暑い日です。上田の庄あたりはいかに?

Photo 今年のNHKの大河ドラマは直江兼続が主人公です。始まりの舞台は「上田の庄」とのこと、さて上田といえば長野県上田市しか思い浮かばなかったのですが、越後の(つまり新潟県の)南魚沼市あたりのこととのこと。有名な豪雪地帯です。主人公兼続の幼年時代<与六>を演じた子役の熱演に惹きつけられ昨年の「篤姫」に続き見入っています。視聴率も高いようです。もう一つ身近に思えてしまったのが、実は去年の2月にこのドラマの舞台になっているところを訪ねていたからです。遠くに雪の山々をのぞむこの風景は塩沢辺りの風景です。幼い<与六>が家に帰りたいと雪の中を帰ったのに母親から追い返され喜平次(のちの上杉景勝)に背負われ修行中の寺に戻った場面でした。

Photo_2 その禅寺が「雲洞庵」です。昨年訪ねた時は雪は降っていませんでしたが深く積もっていました。とても規模の大きな寺で、これを支えている地域の檀家の力に感心しました。その時は、このお寺が翌年のドラマに出て来るとは知らず、付属の資料館に歴史資料が沢山あるのもボンヤリと見てきたので後悔しています。Photo_4 Photo_5 Photo_3                             禅寺ですから座禅なども行った部屋がありました。幼い子供らがこのような所で暮らすのはとても辛かったでしょう。武士の子どもに生まれると「定め」と諦めるしかなかったのでしょうが。

この「南魚沼」はお米の美味しいところとして有名です。「なんで美味しいお米ができるのですか」と訊きましたら「水がいいのですよ」とのこと。降雪量が多いということはよい水があることなのですね。雪は大切なものなのです。今年は暖冬です。北陸や越後の方の気候はどうだったのでしょうか。昨日今日のように「暑い冬」を体験すると、雲洞庵辺りはどうなのだろうかと気になります。

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2009.01.31

写真集「日本国憲法」新鮮です

Photo Photo_2 私たちの世代が後の世代に伝えたいもの、それは「日本国憲法」とクレメンタインさんが教えてくださいました。魁皇のように満身怪我だらけ、とありましたが、昨日「新しい本」の日本国憲法を見いだしました。とても新鮮な気持ちで読みたくなります。

「人間公路 SILKROAD」の写真展を開催していた新宿コニカプラザで手にしました。写真家長倉洋海氏と憲法を研究している伊藤真氏が制作した「日本国憲法」です。世界各地で撮ってきた子ども達の写真が憲法の条文に並んでいます。「第19条 思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」のところにはラオスの若い僧侶の写真が、25条 すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の背景にはコソボの少年の写真があります。憲法そのもののイメージとしては「平和の象徴 鳩」の写真です。ステキですよ。

オバマ氏のお母さんが「公民権運動の歴史」を息子に伝えたように、私たちは「日本国憲法」がつくられた経過、その時代、それを頼りに戦後の厳しい時代を生きてきた時代の歴史を伝えなければならないのです。すっかり痛めつけられ薄汚れてしまった「憲法」を磨きなおしてしっかり手元において大事にしなければいけないのです。長倉・伊藤両氏の発想に敬服します。

Photo_3 Photo_4 「日本は、世界に数ある敗北のうちでも最も苦しい敗北を経験したが、それは同時に、自己変革のまたとないチャンスに恵まれたということであった。『よい社会』とは何なのか。この途方もない大問題が敗戦の直後から問われ始め、この国のすみずみで、男が、女が、そして子どもまでが、それを真剣に考えた。それはかつてないチャンスであった。」(敗北をだきしめて上巻)

上の写真は数年前に発売されたジョン・ダワーの本です。大変評判になりました。今、この本をもう一度読み直して見るときでしょう。憲法を作り、戦後の混乱期を歩み出した頃の日本をアメリカの目からとらえた内容が数多く書かれています。日本社会について何が書いてあるかはまた別の日に。

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kuremenn

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2009.01.28

オバマのお母さんは私と同じ年齢!

Photo オバマの母親スタンリー・アン・ダナムはシアトル近郊の高校を卒業し、家族の引っ越しによりハワイに移住し「ハワイ大学」に入学、ロシア語クラスでケニアからの留学生バラク・オバマ・シニアと知り合った。アフリカからの最初の留学生の彼は大学でも注目を集める学生だったという。1961年に二人は結婚、そして出産。しかし夫はケニアに妻がおり、また国に期待された人材故に祖国に帰っていったという。しかし・・・そこで絶望する母親ではなかった。大学に復学しこどもを育てながら学び続けたという。1967年、アンは再度の結婚をする。相手はインドネシアからの留学生。

今でこそ「文化人類学」という学問があることは知られているが1960年代の日本ではまだ知られていなかった学問分野である。丁度1967年頃、高校時代の友人のBクンが結婚したが相手は間もなく「ハワイ大学」に文化人類学を学ぶために留学するという。結婚してすぐに?と驚いたが彼女は意志を貫徹した。そんなに魅力のある学問なのかと関心を持つきっかけになったが、今思えばその頃の「ハワイ大学」にオバマ氏の母親が学んでいたわけである。新しい学問に夢を馳せる若き日のアンの姿が目に浮かぶようである。

文化人類学はフィールドワークを基本とする。アンはインドネシアを自分のフィールドワークの場とし研究を続けていった。息子が10歳になるとハワイの両親の所に送り「しっかりした勉強」をさせたという。外国で少年時代を過ごしたにも拘わらずオバマ氏が標準英語(?)を力強く話せるのは、母親の教育の成果であるともいわれる。

母親は、1995年に52歳で亡くなってしまったが、インドネシアでは、村人のため、貧しい者のために心をくだいて仕事をし、人種・民族・宗教などに偏見のない優れた国際感覚の持ち主であったという。亡くなられたのが本当に残念な女性である。母親の姿から今日のオバマ氏の思想や政治的な信条が形成されたのであろう。

それにしても、私と同じ年齢ということは・・・アンが10代で出産したので多少年齢の点で違いがあるがオバマ氏は「我が息子」なのである。振り返れば1960年代後半はアメリカで「公民権運動」が最も盛り上がりをみせた時代である。アンはその話を息子にしていたという。アメリカの歴史を心に刻ませていたのである。時代の先端の学問を志して生きた女性だったから祖国の人種差別や貧しい人々の存在を許せなかったのであろう。写真はその「母親」と1962年ハワイで撮ったものである。

歴史は新しい時代を拓いていく。今、「文化人類学」も学ぶ女性は日本ではかなり多い。世界各地の山村僻地へと「古い時代の暮らしをしているひとびと」を訪ね、共に暮らし、貴重な資料を発掘し、研究を深めている。オバマの母親の心意気を引き継いだ女性が羽ばたいている。

社会から引退しつつある私の世代のやり残していることがまだあるではないか、それを喚起させてくれた。次の世代に継いでいくこと、忘れ去ってはならないこと、それを確かなものとしておかなければ若い世代に申し訳ない。そんな気持ちにさせてくれた女性である。

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2009.01.27

オバマ大統領の演説とアメリカ史

File0001 新しい大統領の演説を聴くために200万人もの聴衆が集まる。その会場の様子と演説する大統領をテレビ放映する。大統領はメモなど見ることなく自分の言葉でスピ-チをする。・・・遠い世界のことだったアメリカ大統領が極めて身近に、私たち遠方の国にも姿を見せた数日でした。

オバマ氏が大統領就任にあたってどのような演説をするのか世界中から期待されていたたとのことです。早速、新聞にその内容が翻訳されて載りました。丁寧に読んでみました。素晴らしい内容でした。自信を失い方向性を見失っているアメリカ国民に大統領はアメリカの歴史を語りながら、依って立つ基盤をしっかりと思い起こさせていました。

僅かな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求め海を越えてきたひとびとは、汗を流して懸命に働き、西部を開拓した。むち打ちに耐え、硬い土を耕した。

仕事より娯楽を好み、冨と名声の快楽だけを求めるような小心者ではなかった。

アメリカのこれまでの道を担ってきたのは、危険を恐れぬ者、実行する者、生産する者たちだ。有名になった者もいたが、多くは日々の労働のなかで目立たない存在だった。彼らが長く険しい道を、繁栄と自由に向かって私たちを運んでくれたのだ。

アメリカの歴史のなかで、コンコードの戦い(独立戦争が始まった時の戦い)ゲチスバーグの戦い(南北戦争で初めて北軍が勝った戦い)ノルマンディーの戦い(第2次大戦でヨーロッパ大陸に上陸した時の壮絶な戦い)そして多くの犠牲者を出したベトナム戦争を取り上げて、それらの戦いの中で失われた多くの犠牲者のうえに今日があることを想起させている内容もありました。独立戦争の時の苦難をひきあいに出して呼びかける言葉もありました。

アメリカよ。共通の危機に直面したこの苦難の冬の中で、時代を超えたこの言葉を思い起こそう。希望と美徳をもって、いてついた流れに再び立ち向かい、どんな嵐がこようと耐えよう。

「希望と美徳(hope and virture)」という言葉をもって呼びかけるなんて、なんと凄いことなんだろう、と感心してしまいました。

オバマ大統領の今後に大きな期待を寄せたいと思いました。

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2009.01.11

プレカリアート(precariato)なる言葉

聞き慣れない言葉ですが、「Wikipedia」によると、新自由主義経済下の不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者を総称される言葉 とあります。イタリアの落書きから始まって今では世界的に通用する言葉になっているようです。イタリア語precariatoの意味は “不安定な” です。勿論プロレタリアートをもじった言葉でもあります。

今にして思えば「社会主義ソ連」があった時代は、社会主義の国では失業が無い、社会保障が充実しているといった理想社会のイメージがありました。(実際は理想社会ではありませんでしたが) それ故に資本主義の国でも雇用の確保、社会保障の充実などが労働運動や社会運動の目標でもあり、その点については社会の目が光っていたのでした。しかし、社会主義ソ連が崩壊し、ロシアも資本主義に、中国も改革開放で自由競争の原理を採用し・・・・・・・・・となった世界は「新自由主義」の経済が吹き荒れたのでした。国内であれ、海外であれ「安いコストで大量生産・大量販売」を競うためには人件費を安くするのが手っ取り早い方策だったのです。

プレカリアートの中身としてパートタイマー・アルバイト・フリーター・派遣労働者・契約社員・委託労働者・移住労働者・・・・・が例示されています。いつの間にかこんなに沢山の新しい労働形態を著す言葉が(そのような働き方が)出来ていました。そして、今や全労働者の1/3が非正規雇用だということです。若年層(15歳~24歳)では45.9%にも達しているそうです。女性は53.4%が非正規雇用です。これらの実態は湯浅誠氏著「反貧困」(岩波新書)に書かれています。

国会で菅直人氏が麻生首相に「この本を読んだことがありますか」と訊いていた本です。残念ながら首相は「レクチャーは受けましたが・・・・・」と言葉を濁していました。実態はつかんでいないことが明らかになった場面でした。湯浅氏は「反貧困ネットワーク」の事務局長を務め、多くの人々の生活の相談に乗り、今回の「派遣村」の運営にも中心になった方です。情報をしっかり掴み、実態を知っていたから非常事態を予測でき、救済措置をとることを実行できたのだと思います。本来は政治家の仕事ではありませんか!

夜遅く地下鉄などに乗ると沢山の若い年齢の乗客がいます。以前は「飲み会」にでも行っていたのだろうと思いましたが、それにしては皆さん草臥れた顔をしています。都会は様々な労働形態があり夜遅くまで働いている人がいるのだと思うようになりました。更に、その人達が派遣やパートタイマーであるかもしれないと思うようにもなりました。社会改革の必要な時代です。

cindyさん、コメントありがとうございました。ナマの声をきかせていただきました。

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2009.01.08

職を失い、住まいを失った人が・・・・・・

Dscf0239 明けましておめでとうございます。今年のお正月はよいお天気が続きました。今日はもう7日、この間ずっと晴天でした。何百人もの人々がテント村で年越しをするという悲惨な労働環境が露わになった気の重い新年でした。歴史の教科書には「アメリカでは1929年に始まった世界恐慌で失業し家を失った人々がテントで暮らした」「これを大統領の名をつけてフーバー村といった」などの記述があります。これは過去のこと、他人事と思っていたことが現実に目の前に展開していることにぼんやりしていた頭を殴られた様な気がしました。ただならぬ時代に今生きているのだと実感したお正月でした。

新年のテレビ番組に「今どのような時代に生きているのか」を解説しているものがありました。「パックスアメリカーナの終焉」と位置づけていました。冷戦が集結してからアメリカの威力が強くなりグローバリゼーション=アメリカ化と捉えざる得なくなったのかと思いましたが、アメリカの経済的な力は末期的な症状をみせていたのでした。サブプライムローンの問題は「貧困大国アメリカ」で堤さんが分かりやすく書いていましたので良く理解できました。返せるアテのないローンを組んで、そのローンを証券化して全世界に売りに出し、その金額は膨大なものだったというのですから恐ろしい資本主義です。そのようなことをして稼がなければならないほどアメリカの実体経済が衰弱していたわけです。

行き過ぎた金融資本主義を制御することが昨年11月の「金融サミット」で決まったこと、その会議には20ヵ国が参加していたことなどが、国際金融の世界の「アメリカ支配」が終わったことを意味していることなども、日本政府の説明ではよく分からなかったことです。アメリカべったりの政策でいると国際的な情勢が見えません。

世界経済の停滞が雇用関係に波及する経過が絵に描いたようにはっきり出てきてしまいました。自動車が売れない→自動車の生産を減らす→労働力を減らす→派遣労働者の首を切る→正規雇用の労働者の首を切る、あっという間にこれらが進行していました。息子の代ですと「派遣労働」という働き方が何であるかがわかるようですが私たちの代には派遣労働というものについて知識がありません。数がこのように多い、しかも基幹産業の分野にということに驚いています。

かつては高校と職業業安定所が連携して雇用関係のしっかりしたところに就職させる努力をしていましたが、「自由化」によって職安を通さず企業の発するインターネット情報のみで就職を決めてしまうことが増えています。本当に危険な社会です。規制緩和、自由化などのかけ声でこれらの政策が進行していました。「貧困層」は意識的につくられたのです。

沢山勉強しなければなりません。声を上げていかなければなりません。シャキッとしなさいと発破をかけられた新年でした。

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2008.12.20

ヴェネチアで会った女性

Dscf0260 ヴェネチアはイタリアの観光地のなかでもトップを占めるということで今回の旅行では期待した都市でした。ラグー(潟)のなかに人工の島をつくり、そこに堅牢な建物を建て何百年も維持してきているというのですが実感としては分かりません。宿泊は陸地の方でしたから朝早くバスで出発し船着き場から船に乗って島にいきました。なるほど多くの船が往来しています。「ここでは救急車も船です」とのお話通り、前方を病人を乗せた救急船が走り、なんと「霊柩車(船)」まで遭遇したのには驚きました。よくこのような不便を乗り越えて人々は暮らしを立てているものです。学校なども船で通っているのでしょう。終電ならぬ終船は何時なのでしょうか。

Dscf0271 ゴンドラに乗っての観光も結構面白かったのです。水路の両側にある家は古いものでぎっしりと並び立ち,水路側は家の裏手にあたりますから汚さもそのままで苔むしている様はそのまま古い歴史を物語ります。私たちが行った時はなにもありませんでしたが、時々「高潮」に見舞われるとか、多少の高さはある建物でしょうが水路から家のなかに水が入ってくるのではないでしょうか。下水設備は完備されていないとか・・・・どんなことになっているのでしょうか。生活の仕方がどのようになっているかなど知りたいことが沢山出てきました。またゆっくり行けるといいのですが。

このヴェネチアでもある女性との出会いがありました。ひと休みにと「カプチーノ」を飲みに入ったBARで支払いをしようとしたらレジの人から日本語での返事が・・・・それはそれは美しい日本語でした。「母が日本人です。」と言った女性は、母親は日本に帰り本人はずっとイタリアに住んでいて日本語は独学で学んだそうです。マニアルにある日本語をそのままに言うようなことではなく、自然に「・・・・・でございます」とか「・・・・・・と申しております」とかが出てくるのです。大分以前には聞いたことがある語り口でした。

考えて見れば私たちより前の世代には両親や兄姉にも敬語をつかっていた時代があったのです。多少は知っていましたが、今では照れくさくてとても言うことができません。ですから次の世代には全く伝えていないのです。一つのタガがはずれると解体が進行してしまいます。「日本語が亡びる」と言われる現況に至ったわけです。外国人が学んだ日本語がとてもきちんとした日本語だという話も聞いたことがあります。ちょっとうろたえました。やさしい笑顔のその女性と記念写真を撮ってきました。サンマルコ広場に近い大きなバールでのことでした。

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2008.12.12

エトルリア人の歴史をもつ町ヴォルテッラ

個性的なお墓をもったエトルリア人はイタリア半島中央部に都市を形成していました。塩野七生さんによると「12の都市国家で連邦制をとっていた」ということです。12の都市国家で今も健在なのがアレッツォ、ヴォルテッラ、キュージ、ヴィテルボ、オルヴィエト、タルクィーニャ、チェルヴェトリ、ウエイ、ペルージアの9都市とのこと。アレッツオは映画「life is beautiful」の撮影の行われた町、ペルージアは中田選手が最初に所属したチームのある町、タルクィーニャは美男美女が描かれたお墓が世界遺産になっている町・・・・・・それぞれが丘の上に造られて、現在につながっているとは驚きです。

以前に、そのなかの一つ「ヴォルテッラ」に行ったことがありましたので、そのときの写真をもう一度登場させます。これは町の一角から周囲の田園地帯を見渡したところです。Block_image4_15_2 中世には伝染病などを防ぐため小高い場所に町を造ったところはありますが、紀元前からとは、不思議な民族ですし、石造建築の技術力が優れていた証拠です。   次は、この都市の一角にある「ローマ遺跡」、ローマ人は高いところは苦手Block_image4_12 だったのでしょうか。少し低いところに劇場や神殿を造ったようです。

 このような大事な遺跡が第2次大戦中の「空襲」で破壊されそうになりヴォルテッラの人々は城壁に覆いをつくり保護したそうです。古代エトルリア時代からの門と城壁にそのことが書いてありました。この町にも「エトルリア博物館」があります。タルクィーニャとはお墓の構造や埋葬の仕方が異なっていたようです。 Block_image4_11

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2008.11.24

タルクイーニャで美男・美女に出会う

Photo タルクイーニャはローマから90kmほど北にある古い都市です。2004年に世界遺産になりました。でも世界遺産はネクロポリスという名で呼ばれているお墓なのです。お墓の主はローマを建国したラテン人より早くイタリア半島中部に住み着いたエトルリア人です。彼らは航海術にたけ、鉄器などを扱う商業民族として豊かな都市文明をつくりました。ローマ人たちも一時エトルリア人の王様に治められていたことがあります。今回念願かなってこのお墓の中に入ることが出来ました。片方にティレニア海を眺め、反対側に丘陵地帯のある草原にバンガローのような建物がありました。案内されてそこにいきますと地下に入れるようになっています。タルクイーニャのお墓は壁画が美しいので有名です。でも2500年も昔のお墓です。薄気味悪い世界のようにも想像していました。

ところが・・・石室を覗くと明るい色彩で壁に絵が描かれていました。多分死後の世界を想像して描いたのでしょう。イメージとしては「極楽」とか「天国」です。オリーヴの木が茂り実もたわわについて、人々(死者?)は楽しそうに歌ったり、踊ったり、相撲をしたりしているではありませんか。そのような絵から当時の人々の暮らしがわかります。寝そべって食事をしている姿もあります。あとで「国立タルクイーニャ博物館」に行き沢山の発掘品にもお目にかかりました。石棺の蓋には夫婦仲良く寝そべっていたりソファーに座っていたりする彫刻がついています。男女は対等であったともいわれます。

なんと楽しい民族だったのでしょう。エトルリア人は歴史の中ではローマにのみこまれて行きますが当時からあった都市で今につながる都市も沢山あります。ペルージャ・シエナ・フィレンツェ・ボローニャなどもエトルリア起源の都市です。イタリアの州の一つに「トスカーナ州」があります。意味は「エトルスキーの土地」です。トスカーナの人々は自分たちはローマとは違うのだということを強調します。きっとこのネクロポリスに表されるような「豊かな文化」を引き継いでいるというプライドがあるにちがいありません。

美少年が多かったのでしょう。美しい衣類や履き物を身につけて軽やかに笛をふいて歩いている若者の絵にすっかり虜になりました。今、パソコンの前に飾ってあります。彼らが迎えてくれる「あの世」なら心弾ませて行くようになるでしょう。ではその絵の紹介を。

Photo_2  Photo_3クリックして大きくしてみてください。惚れ惚れするような美少年ではありませんか。靴もカッコイイですし、衣装も軽やかです。笛の音に釣られて付いていってしまいそうです。

もう一人は竪琴のような楽器を持っている青年です。

最初のところにある絵は少女のようです。ネックレスをしたり髪飾りをつけたりしています。高貴な家の娘さんでしょうか。

日本人観光客はあまり来たことがない、添乗員さんも初めて、というこの街でなんと日本の若者に会ったのです。あちらもビックリ。聞けば「100キロマラソンの大会」があって来たということでした。坂道の多いあの古い町をどのような印象を持って走るのでしょうか。がんばれ!

トイレで会ったミラノの方から来たというイタリアの少女達は「東京から来た」というと感激してくれました。彼女たちにとってトウキョウはアニメの世界でお馴染みの、憧れの町ですから。

  

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2008.11.15

駆け足のイタリア旅行

Photo 11月4日朝に成田を発ち11日の朝に帰着した「歴史研究友の会」のイタリア旅行の途中立ち寄ったボローニャの骨董市の風景です。今回の旅行の行程で訪れた街は ローマ、タルクイーニャ、フィレンツェ、ピサ、ボローニャ、ヴェネチアでした。参加者25名、平均年齢は60歳より上(?)だったでしょうか。イタリアが初めての人も多く、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチアなど有名な観光地を周りましたが、それだけでは「歴史研究会」と名乗った意味がありません。目玉はタルクイーニャとボローニャでした。高校で「世界史」を学習した人は「ボローニャ」の名を聞いたことがあるでしょう。ヨーロッパの中世の大学で最も古い大学の名だからです。

大学の成立そのものが、法学を学ぶために各地から学生が集まって「組合」をつくり、その道に詳しい学者を師として選び、授業内容も学生が審査し、駄目な教授はやめてもらうといった自治精神に溢れた歴史をもっているのです。私達が学生の頃は「大学の自治」がいかに大切なものかを言うときに「中世のヨーロッパの大学は学生がつくったのだ」「だから学生も大学の自治を担う役割、権利があるのだ」と先輩たちから教えられたものです。学問の自由が奪われ、多くの学者が大学から追放された我が国の戦前の歴史がまだ忘れられていなかった時代ですから、「大学の自治」を守ることに使命感のようなものを抱いたものです。そのようなことを思い出すにつけ「ボローニャ」という言葉が蘇っていました。現在の日本の大学には「大学の自治」とか「学問の自由」などは消えてしまっています。不安と危険を感じますが・・・・・・。

「ボローニャ大学」の古い校舎の場所を案内していただき、この地に長い自治の伝統があるのだと実感出来たことは今回の旅行で得た宝物の一つでした。ボローニャは爾来「自治」の精神を引き継ぐ都市として、中世・近世には「ローマ教会と教皇」と対峙し、20世紀にはナチスドイツの支配から地力で街を解放するといった強さをもった都市です。以前紹介したことのある「ボローニャ紀行」(井上ひさし著 文藝春秋発行)はこれらの歴史についても触れています。

今回の旅行には「生活クラブ生協」と「生活者ネット」、また「ワーカーズ」という協同組合方式の事業所を運営している方も数人参加しました。現在のこれらの活動にとっても「イタリア協同組合」の中心都市ボローニャからは学ぶところが多いのです。これについても井上ひさし氏がよく説明してくれています。

そのような古さと新しさの共存する都市ボローニャの古い建物に囲まれた一角で骨董市が開かれていました。出会った日本人の家族は「和食のレストランを開くための準備中」とのことでした。小さい男の子二人を連れて異国の街に夢を実現しようとしている若いご夫婦に拍手です。日本の若者の逞しさを感じました。

私の買い物は「マリー・ルイーズ」についての本です。ナポレオンの2番目の皇后です。イタリア語版です。読めませんが、なかの写真に釣られて買いました。

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2008.11.03

会場に響き渡る「飛べおほむらさき」

今日、「都立調布北高校学校創立35周年記念同窓会」に出席してきました。35周年記念とは聞き慣れない括りです。・・・・理由は、この同窓会は長い間休業状態で、総会も開かれていなかったのですが、母校創立30周年を機になんとか「開店」にと努力され、体制が整ったので学校創立35周年と名付けて総会実施の運びになったとのことでした。

会場は当初の予定を遙かに超えて515名の参加者でひしめきあっていました。入りきれずにドアの外にもテーブルが置かれていました。幹事さん達には、嬉しい誤算だったのことです。第一期生が丁度50歳になっていました。正面のスクリーンに貴重な「入学の頃」の風景が写されました。校舎の建設が間に合わず1学期の間は「世田谷工業高校」の校舎を借りて入学式や授業が行われていました。「銀座に着ていける制服」とのことでエビ茶色のブレザーが決められたと本物が展示されました。水着は縞々で、女子は縞々に焼けたことと、なんと水着まで登場しました。皆さん身を乗り出して見入っていました。

現在の高校風景ということで文化祭の劇や表彰の場面が写し出され、「ダンス部」の生徒総勢43名の迫力ある踊りまで登場しました。同窓会に現役の生徒が呼ばれ、それに応えるというのも大変珍しい試みでした。「私たちも学校が大好きで、先輩達のつくってきた伝統を引き継いでいきます」という健気な意見表明virgoにも胸をうたれました。

凄い学校なのだなーと改めて認識しました。実行委員長の次の言葉は関係者に是非伝えておきたいとこの報告を書きました。

すべての始まりは、我々の「北高」に対する母校愛によるものでした。なぜ、これほどまでに、我々が「北高」を愛してやまないのか、・・・・・・私の理由は、きっと「北高」が私の「個性」を育んでくれた苗床の様な存在だからだと思います。入学時には、細く、風雨にさらされたら倒れそうな弱々しい苗を、太く、丈夫に育て、しかも他にはない、ユニークな「個性」を育んでくれた、そんな苗床だったと思っております。

最後に大合唱「飛べおほむらさき」で終わりました。本当に皆さん大きく羽ばたいていました。卒業生8470名、そのうち72%の住所が分かり、515名の参加者があったこの同窓会の今後の発展を心よりお祈りいたします。このような学校で教員をつとめることの出来た自分を幸せにおもいます。

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2008.10.20

ご当地限定販売のお饅頭です。人気上昇です。

Photo_5 これは、とてもかわいい「お饅頭」です。白あんいりです。あちこちで売られているものではありません。ここ□□□□のみの限定販売です。

昔、この地は「黒いダイヤ」が沢山とれました。しょう熱地獄のように熱い地底でツルハシをふるいモッコを担ぎ、沢山の人が働きました。景気のいいときは街は賑わいました。「ひよこ」とか「チロリアン」とか今は全国販売の有名なお菓子は実はと言えばこの地のお菓子やさんがつくったものです。ヤマの会社の社員の贈答品などによくつかわれました。

落盤事故などで悲しいサイレンの音が響き渡る時もありました。朝鮮半島から多くの労働者が連れて来られた歴史もありました。「喜んで来たのだ」などと言った人がいましたが、慌てて取り消しました。

その時代を思い出させるようなボタ山も廃坑跡も今はありません。ただ、その頃の会社経営者の家が街の一角に今も「○○御殿」といわれてあります。なんでもこの一族は会社経営だけでなく政治家としても有名な人が3代も続いているそうです。

ことしの秋、その御殿に関係する人がついに総理大臣になりました。おじいさんも総理大臣だったそうです。お目出度いことで、そこで「お饅頭」となったのです。なんと命名しようかと知恵を絞って考えました。そのままがよいということで『たろちゃん饅頭」としました。『たろ』の部分は大きな字で『ちゃん』は小さな字で。

評判はよく、街の小さなデパートでは作るそばから売れています。こんな風にして人気を高めていくのでしょうか。以前は人権を無視した内容の発言をしていた「たろちゃん」のお顔はお饅頭で見るととてもなごやかで愛嬌さえあります。とくとご覧あそばせ。

この街の名はなんでしょう。「青春の門」にも出てきます。

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九州国立博物館は太宰府天満宮を通って辿りつく

Photo 太宰府天満宮門前町、ここは「梅が枝餅」などが売られているお店が多かったが、以前行った時に較べ新しい種類のお店が増えていた。「鬼太郎グッズ」のお店や「縮緬手芸品のお店」など。そして・・・東京の「ドーナツ屋さんの行列」の様にある特定の「梅が枝餅」屋さんに長い列・・・・流行とは恐ろしいもの。あの素朴な梅が枝餅は他のお店で買っても十分においしかった。土曜日とはいえ人出が多かった。天神様は受験シーズンに繁盛と思いきや今も忙しいらしい。なぜならば「推薦入試」の受験シーズン、それに合わせて特別祈願を行っているらしい?

Photo_3 太宰府天満宮を正面に太鼓橋を渡って右手にいくとエスカレーターがあり、ここを上がっていくと「九州国立博物館」があるということだ。本日の目的は太宰府ではなく博物館、新しい展示方法で人気も高いということで 法事で九州にきたついでに立ち寄ってみたところ。

ながーいエスカレーターに乗り更に歩く歩道を通って外に出ると・・・・・・・・・・・ホテルかと思うような超モダンな建築物Photo_4 、これが「九州国立博物館」でした。今の特別展は「天神様」。なんとも庶民的な名前のついた展覧会です。全国の天満宮から国宝やら重要文化財やらが太宰府に集うのだそうだ。

展覧会で多くのことを学ばせてもらった。菅原道真の遺徳はもちろんのこと、菅公にまつわる絵巻物の数々、民間信仰では神様になったり仏様になったり、忙しく唐の国にわたり禅を修めてきたり、書道の神様、受験の神様・・・・これだけ現世の利益をもたらしてくれる有難い方はいないでしょう。じっくりと展示を見て回った。

というわけで時間がなくなり、本来の「九州国立博物館の魅力」を確かめる時間がなくなってしまった。次回のお楽しみです。

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2008.10.17

その実はなんですか? マムシ草というのだそうです

Photo_3 山林のなかに大きな赤い実をつけた「トウモロコシ」のような形の植物が見えました。少し歩くとあちこちにあります。「なんという名なのだろう?」家に帰って調べてみようと一本いただいてきました。鮮やかな色、びっしり詰まった赤い実、とても気になりました。

帰りのローカル線で、発車間際に駆け込んできた女性の乗客の腕にもこの赤い実の植物が数本ありました。思わず「この草の名前はなんというのですか?」と聞いてしまいました。別の乗客も近づいてきて「山のなかで見ましたよ。これはなんでしょうね?」と。  すると、その女性は『これは地元の人にきいたらマムシ草というのだそうです。』『友だちに電話で話したら持ってきて欲しいといわれこんなに抱えているのです』とも 

でも、どう見てもマムシとは結びつきません。すると謎解きをしてくれました。『この草は春には丁度マムシのような形をしているのです。だからマムシなどといわれたのでしょう』それにしても蛇のかたちからは想像出来ない実の姿です。質問したり答えたりしたご縁で、2時間余りオシャベリしながら東京まで帰ってきました。

帰宅してインターネットで調べてみると、やはり【マムシ草】ということがわかりました。春先の<蛇のような新芽>から赤い実がなるまで丁寧に写真をとってあるHPもあり、知識を一つ多くすることができました。しかし、秋の野草は、はかない風情のものの方が多いでしょう。少し摘んできてみPhoto_5ました。

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秋色アジサイ見ーつけた 

Photo_2 秋色アジサイは夏の紫陽花を咲かせ続けて造るということだったけれども自然のなかでもできるようです。10月半ばに栃木の里山を歩いていて廃墟になりつつある家屋の窓の下に紫陽花の株を見つけました。すっかり枯れた色になってしまった花が多かったのですが、近づいてよく見ると変わった色のまま残っている花もありました。嬉しくて いただいて来ました。誰も住んでいないところでしたから。

どうしてこんな色になって残っているのだろうと不思議に思うきれいな色です。何処に飾っても立派な「お花」ぶりです。どれだけ咲き続けるのでしょうか。太陽の光と土のなかの成分とで「七変化」を見せる紫陽花は「気まぐれ」な花と言われるわけです。

丁度その日に「山芋」をつくっているオジサンに貴重な話を聞きました。その人は自分が好きだからと畑で山芋を作っています。丁度今頃、地上の葉っぱが色づきはじめると地中の芋を堀りあげます。大きな大きなごっつい手の形の山芋です。昔小学校で教えてもらった大関松三郎の詩の「山芋」です。するとオジサンは言いました。「これは3年かかって出来た芋なんです」  「エー!」と叫んでしまいました。「毎年とれるものではなかったの?」「そういう芋もあるんだが、私はじっくり土の中で育っていくのを待っているのだ」との答え。「有名な産地のものより美味しいと言ってくれる人がいてねー」  大事に育てた 大きな山芋をいただきました。そしたらもうひと言「すぐに食べないで10日くらいお日様の光にあててから食べてください。美味しさが違うから」 

太陽の恵みはすごいものです。秋色アジサイは玄関で、山芋は陽のあたるところで、我が家に秋をもたらしてくれています。

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2008.10.10

映画「マンデラの名もなき看守」に思う

今から20年近く前のこと、南アフリカ共和国の「アパルトヘイト政策」に反対し黒人の公民権獲得のために闘うアフリカ民族会議(ANC)の事務所が東京に開かれた。想像を絶する隔離と人権無視の凶暴な政治について世界の人々に実態を知らせ、国際的な反アパルト政策の運動を起こす動きがこの日本でも始まった。

ANC日本事務所の代表はジェリー・マツィーラ氏、高校時代にパス不携帯で逮捕され、大学時代は学生運動で放校され、その後中学の教師として「ソエト蜂起」を組織し、亡命先でANCの活動を行っていた闘士であった。しかし、お会いしてみると洗練された物腰の紳士でありこのような人々が運動の中心になっているANCに関心を持つきっかけとなった。

その後まもなく映画「遠い夜明け」が上映された。<黒人意識運動>を組織し医療活動や識字運動をすすめていたスティーヴ・ピコが主人公のこの映画は、ビコが拷問で亡くなり、アパルトヘイトの実態を知ろうとする白人のジャーナリストにも魔の手が及ぶという壮絶な内容の映画であった。多くの人の目を南アフリカに向けることとなった。

彼らが黒人の運動のリーダーと仰ぐのが「ネルソン・マンデラ」であった。1964年に終身刑を宣告され、政治犯の収監される「ロペ島」に閉じこめられていた。私自身、世界史の授業で『ネルソン・マンデラがこの島に幽閉されているのだ』と教えていた。顔写真は意識的に悪人顔で撮られたものしかなかった。

自分の生きている時代に「歴史的瞬間」が展開されることを幾つかの場面でみてきたが「マンデラ」氏が27年間の獄中から解放され、「新生南アフリカ共和国の大統領」になり、ノーベル平和賞を授与され、更に現在も90歳の高齢で存命中という歴史をこの20年間でみてきた。獄中に何年もいたにもかかわらず政治的な判断力に優れ、国際社会にも順応していける力をもつ人、多くの人々から尊敬され敬愛される人。なんと素晴らしい人なのだろう。

マンデラ氏90歳を記念してこの映画が作られたという。獄中での生活や弾圧がどのようなものであったか、刑務所の看守として政治犯を警備する側がどのような非人間的な環境のなかにいなければならなかったか、この映画は看守ジェームス・グレゴリーを主人公にしてマンデラへの尊敬と家族と自分自身の再生を描いている。ネルソン・マンデラの雰囲気がよく出ているが「闘士マンデラ」像は弱い。

新しく国家造りを始めた南アフリカ共和国は今エイズ患者の多い国としてあたらな困難に立ち向かっている。マンデラはどのような自伝を残すだろうか。マツィーラ氏は今なにをしているのだろうか。遠い南アフリカに思いを馳せる。

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eiga

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2008.10.06

イギリスにおける使節団  履き物は?

前掲の「幕末の日本使節団」のデッサンをよく見てみよう。履き物はなんだったろうか?・・・というのも昨日の「篤姫」に登場した坂本竜馬が<ブーツというもの>を履いており小松帯刀を驚かせる場面があったから。初めてヨーロッパに行った使節団一行は「草履」で通したのだろうか?

絵をみると草履を履いていたようである。彼らを迎えたイギリスの人々が残した記録から、ロンドンに着いた使節団の緊張ぶりを覗いてみると・・・・・・・

1862年5月1日、ロンドンで国際博覧会(万博)の開会式が行われた。各国の王族の代表、世界各国の官公吏、その他高貴な身分の人々に加えて前日到着したばかりの日本使節団がいた。日本人は中国人にそっくりだが、日本人の方が遙かに威厳があり、遙かに正直そうに見える。日本人の表情は生真面目だが陰気ではなく、知的ではあるが狡さがない。・・・・・ニヤニヤお喋りをしたりせず、近くにいる者を指で差したり、絨毯の隅をめくったりはしない。・・・・・・・遠くの異国からやってきた使節の非常に多くの者がそうしたのを、われわれは見たものだが。日本人使節は、開会式を、終始、冷静で、礼儀正しく、うやうやしく、かつ威厳のある態度で見守り、互いに何度も言葉を交わしていたことからわかるように周囲に強い関心を示したが、下品な好奇心をあらわにすることは卑しんだ。彼らは眼前で展開される華麗なドラマを、落ち着いて、目立たぬように注目していた。

その他の報道をみても、ロンドンでの日本人使節の態度は威厳にみち、自国の文化に誇りをもって行動したようである。・・・・・・とすれば、公式の場には「袴姿で草履を履いて」いたであろう。それにしてもお土産にブーツを買ってきたであろうか。

竜馬はアウトローである。新しいこと、珍しいものに飛びついた若者だった。それを「ブーツ姿」でみせるとは、演出も冴えている。

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2008.09.29

家茂や天璋院は使節団の報告を聞いていたのだろうか?

Photo 「天璋院 篤姫」は毎回面白くみている。天璋院についてもあまり紹介されていなかったが、家茂という将軍についても実は殆ど知らなかったことを気づかされた。公武合体で和宮と結婚させられた将軍、大阪で亡くなってしまった将軍くらいの知識しかなかった。今回は家茂が非常時に将軍職を担いながらも凛々しくその職を果たそうとする姿がよく描かれていて感心してしまう。朝廷に攘夷は不可能なことを説得しに行き、それがうまくいかなかったこと今日の放映の内容にあったが、そのための上洛が「文久3年2月」となっており、ふと思い出したのが「文久2年の遣欧使節団」のことである。

この使節団は文久元年12月に江戸を出て文久2年12月月10日に横浜に到着しているのである。であるのなら、当然その報告は成されているはずである。そもそも、このヨーロッパ派遣幕府使節団は、幕府がなかなか条約に基づいた開市、開港をしないため(国内に攘夷運動がおこりまとめることができなかったためだが)各国の公使や領事からせっつかれ開港を遅らせる事情を本国に伝えに派遣されたものである。派遣されたメンバーにはヨーロッパの事情をよく見てくるようにという任務もあった。彼らは実に精力的に各地を見聞して周り、産業革命後のヨーロッパ各国の勢いを直にとらえてきたのであった。

しかし、使節団が帰国した時、国内は攘夷の勢いが激しく、外国に行ってきたことすら口にすることが出来ない状況だったそうである。派遣した老中安藤信正も失脚しており折角の情報も幕府の政治や外交に反映されなかったということだった。この派遣団の中には福沢諭吉なども入っており、まもなく彼らの紹介する「西洋事情」は日本の近代化に大きく貢献するのだが、残念なことに家茂にも天璋院にも届いていなかったのである。刻一刻と情勢の変わる中で正確な情報も得られずに決断をせざるを得なかった家茂への同情が更に増してくる。

ところで、この使節団の日本での報告書とは別にヨーロッパの人々がこの遙か遠い東の国からやってきたチョンマゲ姿の日本人を描いた絵があった。.またイギリス人やドイツ人が見た日本人について調べたものが最近出版された。「ヨーロッパ人の見た幕末日本人」(講談社学術文庫)であり、前掲の写真はその表紙である。内容については別の機会に。

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2008.09.13

秋がやってきた

Photo_3 朝夕は大分涼しくなりました。さわやかな季節到来!と期待しましたが、今日の昼間の光の強さと温度の高さは夏そのもの、やはり草臥れます。小・中学校では体育大会、高校でも体育大会や文化祭などのシーズンです。この暑さではたまりませんね。

自然界は秋色にかわってきています。「朝顔」は真夏より秋風が感じられるシーズンのほうがはかなげな雰囲気があって好きですが、それにしてももう終わりの頃、葉の色が黄色みを帯びてきました。

Photo_5 最近、花やさんに「秋色アジサイ」という花のあることを教えてもらいました。色は普通のアジサイとは違って秋らしく少しくすんだような色、造花かしらと思ってしまう花びらの感じ。実は、「梅雨に開花したアジサイに、酸やアルカリをコントロールした肥料を与え、色をどんどん変化させていく」のだそうです。・・・ときいてもよくわかりませんが。新しい色のアジサイ作りに挑戦している若い人がいて5年くらいの研究で出来上がってきているそうです。アジサイの色は土の酸性度によっても変わる、とは聞いていましたが精々ピンク系かブルー系かぐらいの認識でした。最近グリーン系のアジサイを見ることがありましたが、もっともっと工夫された色のアジサイがでてきているのです。「秋色アジサイ」なんて名前がついて。企業秘密でしょうが作っているところを見たいものです。

Photo_6自宅の近くに「野菜販売所」があることを知り、夏野菜を買いに行くのが楽しみでした。朝早くいかないと売り切れてしまうということにも驚きました。「知る人ぞ知る」で、朝の散歩やジョッギングでしっかり買い物している人がいることなのでしょう。働いていると、このような身近なニュースはわからないものです。夏野菜のシーズンも終わり、ナスもキュウリにもそろそろお別れでしょうか。しっかりした立派な茗荷を大喜びして買ってきました。秋の花の束も1束100円でした。

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2008.09.03

「小さな赤い花」

今年の北京オリンピックの熱も次第に冷めてきました。どういうわけか夜中の遅い時間まで開会式や閉会式をおこない、しかも長々と・・・で少々ウンザリしてしまいました。大スペクタクルには余りの壮大さ、あれもこれもと全部を表現しようとした涙ぐましい努力に感心しつつ、多数の人間を大動員する伝統のようなものを思い出してしまいました。万里の長城を造ったときも、大運河を掘削したときも大量の人民が(最近はあまり使われない言葉ですが)一斉に仕事をしたにちがいありません。厳しい命令のかけ声のもとで。

「最近の中国映画は面白いから」と誘われて8月の終わりの頃、渋谷のミニシアター「イメージフォーラム」で上映されていた『小さな赤い花』という映画を見に行ってきました。舞台は全寮制の幼稚園、エリート達の子弟の学ぶところのようです。題名の「赤い小さな花」というのは赤い紙を切り抜いた花で、良い行いをすると1枚もらえ黒板に貼られた一覧表に加えられるのです。5つも並ぶ子もいれば1つもない子もあるのです。主人公の4歳の男の子はなかなか赤い花がもらえません。

4歳の子どもにあんなに集団行動をさせられるのだろうかと不思議に思うのですが、寝る時間、衣類の着脱、排便行為、食事、なんでも先生の笛にあわせて行います。着る衣類も全部同じ。決まった時間に一斉にトイレに並ぶのですが、いくら頑張っても排泄できない場合もあるのです。でもそれは・・・・・本人が習慣化していないからで×点がついてしまうのです。主人公のチアンは皆とおなじようにしようと頑張って、でも評価されず、次第に反抗的になっていき問題児になってしまいます。

チャン・ユアン監督が何を言いたかったのか、1960年代の幼児教育を過去のものとして描いたわけではないでしょう。全体主義の恐ろしさ、それを真面目にやっている人々への怒り・・・・・などでしょう。ソ連も人民中国も全体主義の国だったと言われます。幼児教育の場を借りて個人の自由な生き方や多様な価値観を認めない社会のあり方を悲しく描いたのだと私は思いました。

ただこれほど極端ではないまでも「一斉に」「皆と同じように」が良いことなのだという価値観は日本社会にも沢山あるし、学校教育はそれを強制してきたわけで、色々考えさせられました。

子ども達は本当に可愛く名演技です。良く撮ったと思いました。

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2008.08.22

千葉館山の海はキラキラと輝いて

cancer館山でU君の経営しているペンションに2泊してきました。「開店以来もう20年になります」というペンションは館山の平砂浦海岸にあって周囲には全くなにもないところでした。2階のダイニングルームからの眺望は素晴らしく遠く大島のシルエットがくっきりと見えました。歩いて2、3分の距離に海岸が広がります。岩場があって「磯あそび」ができ、右手は砂浜、「海の家」などなくペンションのパラソルが2本くらい立っているだけです。正にプライベートビーチです。子どもたちは大喜びで駆け込んでいきました。後ろ姿を見ていると30年前にスリップします。

Photo_2 当時は千葉市に住んでいたので房総の海に行くことは比較的簡単でした。冷たい風が吹くと途端に中耳炎になる子どもの肌を鍛えておこうと数日海岸で過ごすのを毎年の行事にしていました。岩場には蟹やヤドカリがおり、イソギンチャクが波に揺れていました。朝早く起きて父親とともに釣り竿を垂らし、陽が昇ると砂浜でバチャバチャと泳ぐ真似をしていたことを思い出しました。その後、埼玉県に引っ越して何回かは房総半島を訪れましたが海はすっかり遠くなりました。

それから何年経ったでしょうか。この夏、孫を連れて房総の海を訪れることになったのです。「時刻表」を見て内房線の本数が少ない、と嘆きながら特急の指定席がとれたと喜んで意気揚々と出掛けました。・・・・・が、迎えにきてくれたU君から「今は東京駅から30分おきでバスがでているのですよ」と聞いて・・・・。情報不足を知りました。

U君はサラリーマンでしたが、トライアスロンなどに取り組むスポーツマン。思い切ってこの地にペンションを建て脱サラをしたのです。3人のお嬢ちゃんに恵まれ奥様と二人三脚で立派に経営してきました。お客様にはリピーターさんが多いようで、高校生の頃から人を喜ばせることが好きで友人が多かったU君の人柄があらわれているなーと思いました。

磯あそびをしたり、小さなボードを借りて波乗りに興じている孫達の姿に「また来年もきたいなー」と思って帰ってきました。春もまたよいところだそうです。関心のある方は次のアドレスをクリックしてください。「DAY OFF」という名前のペンションです。

http://www.awa.or.jp/home/dayoff/

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2008.08.16

学び続ける女性達に会って

東京品川駅は最近「大変身」しました。新幹線が停まり、羽田行きの京浜急行の便がよくなり、<えきなかショッピング>のお店が増え人の洪水状態です。高輪台にかけてホテルが並び外国人の姿も多く見かけます。

そんな品川駅の高輪口に降りると目の前に大きなホテル「ホテルパシフィック東京」があります。30階にあるレストランに5人の女性が待っていてくださいました。以前お会いした時はもう少し大衆的なレストランでの「ランチ」でしたので気楽な格好で行きましたのに、皆さんは正装に近く華やかな衣装です。なんと「Refuge de madame」(マダムの隠れ家)と名のついた淑女のための夏メニューを頂くということらしいのです。展望抜群の最上階の個室で。身が縮まる思いでした。

「私どもの家から海が見え、夏はその風がよく通りましたのに今は建物で遮られ・・・・」「祖父の代に岩崎弥太郎の起こした三菱を頼って多くの人が土佐から上京しこのあたりにすんだのです。」「羽田のあたりは海水浴や潮干狩りにいきました。」・・・・・・・・・目の前にいるこの女性達がさて何歳か? 話のなかで「米寿」という方もいらっしゃることに気づかされました。なんと私の母親の年齢!

 「婦人自主講座」といういささか堅い名称のこの会は今から45年前に(私の大学生時代)発足し、自分たちで企画をたて多くの講師をお呼びして講座を開き、各地に旅行をしたりしてきたそうです。きっかけは子どもの小学校の保護者としての集まりから。米寿の方は「末っ子が一緒でした」と。東京オリンピックの前に始まっている会ですし、皆さんのお話はなるほど東京にまだ高速道路が開通していない時代のお話なのです。「高速道路は海につながった川を埋めてできましたの」と、その当時の記憶があるわけです。

「生涯学習」とか「セカンドライフ」とかの言葉もない時代から「自主講座」を延々続けてこられた老婦人達と知り合うことができて、しかもお食事を一緒にすることができて私はあらためて幸せな気持ちになりました。それに、彼女達はまだまだ意気軒昂で「2ヶ月に1回」くらい講座を開いているらしいのです。「海外旅行にももっと行ってみたいです。」「NHKのラジオ講座を聴いていますよ」と、学ぶ姿勢のしっかりしていること。 お話していると「私たちは戦争中の女学生で、学校ではお勉強ができなかったのです。だから、知らないことが多くて沢山学びたいのです。」という言葉がきかれました。彼女たちの原点はここなのでしょう。「学びたくても学べなかった思い」がこのように「あこがれ」として続いているのです。

先に名前の出た「斎藤孝」教授が『なぜ日本人は学ばなくなったか』(講談社現代新書)を出版されています。そのなかで「今の日本人が本当に学ばなくなった。勤勉を美徳とし世界に誇っていたのに全くそれは神話と化した」と述べています。「日本人が学ぶことを嫌いになり、バカにするようになる。こんな事態は、今までの日本人が経験したことのない非常事態だ。日本人としてのアイデンティティクライシスが起こっている」と危機を訴えています

日本人はずっと、学びや教養を一段高いものとみなす風潮が社会に充満していた。氏はそれを「リスペクト社会」と名付けています。ところが、ある時期から「バカでもいいじゃないか」という空気が漂い始め、「開き直り社会」「バカ肯定社会」へと一気に変質してしまった。そこにはもう「学び続ける精神や教養への敬意はないし、学ぶべき書籍や教科書の価値もわからない。それを教えてくれる先生への畏敬の念もない。学びたいという「あこがれ」の心の習慣自体がなくなったと言っています。比較的若く(40代後半)、しかもそれ相当の大学で教えている氏の発言でこのように指摘され、それも原因を「教育制度」や「学習指導要領」にするのではなく「社会全体の尊敬・感謝の念の喪失」においているところに大いに刺激を与えられました。

氏は旧制高校の教育や教養主義を理想としています。それは一部のエリート社会の志向と切り捨てるのではなく底に流れていた文化を知ることとして取り上げています。この本を読んで私は昨日会った70代、80代の女性達の「向学心」を支えているものが、もしかしたら日本人全体の心の習慣なのかもしれないと気づかされました。たまたま役員のかたは相応の財力のある方だったのですが、45年間を支えていたのは普通のお母さん達の「向学心」だったに違いがありません。一時は何百人もの会員がいらしたそうですから。

社会で立派な仕事をなさって引退された一人のオジサマから「戦後教育の問題」を指摘され、返事をしなければならないのを延ばしていましたが、この夏またお会いした「自主講座」のご婦人たちの目の輝きと斎藤孝氏の問題整理によって少し前に進めそうです。

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